御富くじの仕組みとその後。
幕府公認となったいわゆる「御富くじ」
特に、「江戸の三富」として有名だったのは、
谷中の感応寺、
目黒の瀧泉寺、
文京区にある湯島天神
この三社の御免富でした。
抽選方法としては、それ程変らず始めに、大きな箱に、
札の数と同数の、番号を記入した木札を入れました。
続いて箱を回転させ、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決めます。
そして当選番号の木札のの所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する・・・という仕組みです。
一等は1000両というのもあったのですから、江戸の庶民の方々が熱狂するのも無理は無いですね。
ただ、1000両当たったからといって、全額貰える訳ではなかった様です。
寺社修理料100両→興行主に
礼金100両→札屋に
その他諸費→約50両程
・・・なので、実質的には700両程だったとか。
この様な手法でおおいに人気のあった富くじですが、やがて幕府により規制がかかる事になります。
松平定信は、富くじを江戸・京都・大阪の大都市に限定しました。
また毎月興行の分を1年3回とするなどの規制をかけました。
文化・文政の頃が最盛期で、上記に挙げた大都市以外でも手広く行われていたのですが、
その後水野忠邦による天保13年(1842年)の「天保の改革」によって一切禁止。
明治になってからも、明治元年(1868年)の「太政官布告」によって、禁止されたので
何と103年もの長い間、日本では「富くじ」は販売されなかったのです。
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