2009年2月21日土曜日

宝くじの歴史 2

御富くじの仕組みとその後。


幕府公認となったいわゆる「御富くじ」

特に、「江戸の三富」として有名だったのは、

谷中の感応寺、

目黒の瀧泉寺、

文京区にある湯島天神

この三社の御免富でした。


抽選方法としては、それ程変らず始めに、大きな箱に、
札の数と同数の、番号を記入した木札を入れました。


続いて箱を回転させ、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決めます。
そして当選番号の木札のの所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する・・・という仕組みです。


一等は1000両というのもあったのですから、江戸の庶民の方々が熱狂するのも無理は無いですね。


ただ、1000両当たったからといって、全額貰える訳ではなかった様です。

寺社修理料100両→興行主に

礼金100両→札屋に

その他諸費→約50両程

・・・なので、実質的には700両程だったとか。


この様な手法でおおいに人気のあった富くじですが、やがて幕府により規制がかかる事になります。


松平定信は、富くじを江戸・京都・大阪の大都市に限定しました。
また毎月興行の分を1年3回とするなどの規制をかけました。


文化・文政の頃が最盛期で、上記に挙げた大都市以外でも手広く行われていたのですが、
その後水野忠邦による天保13年(1842年)の「天保の改革」によって一切禁止。


明治になってからも、明治元年(1868年)の「太政官布告」によって、禁止されたので
何と103年もの長い間、日本では「富くじ」は販売されなかったのです。

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